日々日報

バンド「みせばや」ギタリスト 百萬石マツリのブログです

http://blog.tatsuru.com/archives/000995.php
話題の内田先生の記事に対して一点だけ書いてみたい。

労働は本質的にオーバーアチーブメントなどではないと思う。

原初的な人間社会で、「とりあえず必要」以上のものを作り出して、それを周りの人なんかにあげてみた、というのは正しいと思う。
しかし、あげた理由は、単に狩猟採集漁労で得た獲得物は、貯蓄保存ができないので使用しないと腐ってしまうからだ。

その証拠に貨幣や穀物なんかの形で価値の貯蓄保存が可能になった瞬間から、人間は他の人に無償でものを差し出すなんてことしなくなった。そしてあっという間に貯め込んだ者と貯められなかった者との間に貧富の差身分の差が生じて、勝ち組負け組が生まれた。
というのが確か通説的歴史認識でもあると思う。詳しくないですが。

中世の封建社会でも、君主と家臣はドライな双務契約で結ばれており、契約以上のことなど絶対にやらなかった。
今でも欧米に強くある「Jobの観念」では、雇用契約に基づいた自らの職務は明確に定められており、それ以外のことをやるのは契約違反である、と考えられる。
現在のヨーロッパに見られる日曜閉店法、35時間労働制、なども、人間がほうっておくと賃金以上に働いてしまう、などということがないことを示している(まあ「ほうっておくと働いてしまうから積極的に作成したルールでそれを防いでいるのだ」という見方ができないわけではないが)。

労働が本質的にオーバーアチーブメントであるのは、日本(東アジア、まで広げてもいいのかもしれないが)だけの話だと思われる。過労死は日本と韓国にしかない。

NEETにむかって学びと労働の必要性を功利的な語法で説くのはだからまるで無意味なことなのである。
それとは違うことばで学びと労働の人間的意味を語ること。

この結論は、NEETを働かせる方法として成り立つ、という意味ではその通りだと思う。
しかしこれは極めて問題ある方法である。

現代日本において、NEETには労苦と見合った対価が支払われるような功利的な「労働」をする方法がない。

そのような状況でNEETに労働をするよう説得するには、「労働とは本質的にオーバーアチーブメントであり、賃金よりも多く働いて、他者からの社会的承認と”やりがい”を得るためのものなのだ」というイデオロギーを信じ込ませるほかない。渋谷望言うところの「魂の労働」「アレントの悪用」。この方法はまさに現代資本主義が凄まじい勢いで用いているもので、その意味で、「労働と対価の均衡」を本質とする古典的な資本主義とは真逆と言ってもいい。「非資本主義的な価値」を資本主義がとりこんでいる、という構図である。

「功利的教育論ではなく、非資本主義的価値を教える教育を!」という意見を発表して、政府から支持されて予算などを獲得した日には、結局最も功利的に立ち振る舞ったのは内田先生でした、という逆説が成り立つ。